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タンゴの話 92 <ラ・クンパルシータの創唱録音はカルロス・ガルデルだった>

 この前、タンゴの第Ⅰ期黄金時代3大歌手の1人I.コルシーニを調べていた時、名曲カミニートの録音を巡ってCガルデルと優劣を競った話を知ったが、ラ・クンパルシータの歌唱でガルデルが何と録音創唱者だったことは知らなかった。周知の様にこの曲は作曲1914年、作詞は24年にE.マロニとP.コントゥールシが「Si Supieras~」で始まる詞を合作すると俄然流行し始め、断わりの無かった作曲者G.H.M.ロドリゲスが激怒して26年、別の歌詞を自作する。ガルデルは24年作の方を同年オデオンレコードに初録音した。彼はこの年、ヨーロッパ公演でも歌っているが舞台での初歌唱はファン・フエラーリという俳優。サイネーテというアルゼンチンの大衆音楽劇の挿入曲で、やがてこの曲の大ヒットに繋がる。なおガルデルは交際のあったロドリゲスと彼自作の方を録音する約束をしていたが、遂にその約束は果されなかった。

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タンゴの話 91 <2015年1月から高松ポ音研例会場が変わります>

 昭和30年(1955)に始まった高松ポルテニア音楽研究会(略称・高松ポ音研)の例会は、要するにアルゼンチンタンゴのレコードコンサート。最初から関わり続けているのは会長のボクだけ。去年(2014年)まで高松市内の別の場所で開いていたが今年1月から喫茶「花ぞの」に変わる。
むろん開催要項は同じで毎月第4土曜の午後6時から7時半まで(時間厳守)。ボクの選曲と解説で生粋のアルゼンチンタンゴを始めワルツやミロンガ、更に希望があれば様々なヨーロッパタンゴなどを幅広く紹介している。参加は全く自由。当日の会費1,000円(1ドリンク付き)が必要なだけ。
大体毎月20人前後が集まる楽しいひと時だ。「花ぞの」は長尾街道とレインボー通りが交わる角、長尾街道沿いにあり、バス停「松縄道」の前。 
高松市上福岡町974-1 TEL(087)835-4977。

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タンゴの話 90 <素適な女性歌手は長命だ>

 前回ルーケが今年(2014)86歳で亡くなったニュースを書いたが、考えてみれば歴史的な女性歌手の多くが長寿を全うしている。Libertad Lamarque・リベルタ・ラマルケ(1909~2000)、Azucena Maizani・アスセナ・マイサニ(1902~1970)、Tania・タニア(1901~1999)、Ada Falcon・アダ・ファルコン(1905~2002)、Rosita Quiroga・ロシータ・キロガ(1899~1984)、Mercedes Simone・メルセデス・シモーネ(1904~1990)。ボクの資料からとりあえず生没年の明らかな人だけを並べたのだが、実に素晴らしいではないか。おっと大変、わが国が誇るタンゴの名歌手を忘れてはならない。藤澤嵐子。彼女は(1925.07.21.~2013.08.22.)。世の常識として女は男より長生きするが、中でもどうやら声楽ジャンルの女性は格別らしい。ボクの大好きな現役最高のタンゴ歌手・柚木秀子さんにはますます頑張ってもらいたい。

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タンゴの話 89 <ヴィルヒニア・ルーケの死去>

 タンゴ仲間からメールが届いてVirginia Luque(ビルヒニア・ルーケ)が亡くなったことを知った。1927年10月4日生まれ、2014年6月3日死去ということは87歳近い長寿を全うしたわけだ。1987年と90年に来日した大の日本びいきの歌手であり女優だった。有名なのは1949年作の主演映画「Historia del Tangoタンゴの歴史」。ただ彼女の歌の全盛期は1950年前後でボクのお気に入りは「Mi Buenos Aires Querido わが懐かしのブエノスアイレス」。CD復刻されたルーケの演奏が決して多くないだけに余計心に残る。わがCDコンサートでは早速、彼女の特集を考えた。今世紀に入って死去した名歌手では2002年2月、96歳で生涯を閉じたAda Falcon(アダ・ファルコン)以来。それにしても、Falconは報じられたのに、Luqueの場合、その死が日本の大手新聞等マスコミの死亡記事欄に載らなかったのは不思議でならない、と独り憤慨している。

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タンゴの話 88 <続・タンゴの男性歌手>

 タンゴ男性歌手3羽烏の中で、ボクが昔から一番気に入ってるのが「コルシーニ」だ。当時の歌手のご多分に漏れずフォルクローレ畑出身で、その飄々とした風貌、ジャケットのプロフイル、一寸演歌風に「コブシ」の利いた所謂コルシーニ節、そのどれもがボクには心地良かった。だが長い間、彼が歌うレコードは入手困難で、欲求不満を囲っていた。それもようやく30年程前から手に入り始め、嬉しい発見も相次ぎ、タンゴアルバムの話題を賑わしている。コルシーニの綽名は「El Caballero Cantor」。(騎士歌手=この際、騎士は紳士)。先日、番組でコルシーニのラッパ録音時代の素適な演奏を紹介した。1922年彼がアポロ劇場で初演して大喝采を博した「パトテロ・センテイメンタル」の同年録音盤だ。アルゼンチンの電気録音は1926年に始まったので、これは相当ヒドイ録音の筈だが見事に修正され、その出来栄えに一驚。曲名のアタマに「El」が付いていたのは、時代のご愛嬌だろう。

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タンゴの話 87 <タンゴの男性歌手>

 アルゼンチンタンゴで男性歌手といえば、ダントツでCarlos Gardel(カルロス・ガルデル)の名前が挙がるのは当然だろう。何しろ当時クラシック界で最高の人気を誇ったあるテナー歌手がガルデルの歌を聴いて早速楽屋を訪れ、ガルデルに「もし貴殿がクラシックを歌っていたら、間違いなくボクなどは活躍する場が無かったことでしょう。貴殿がクラシック界に居なくて、本当によかった。」と彼自身のソフト帽を捧げその素晴らしさを讃えた、というかなり怪しげな伝説まで囁かれている。この話の真偽はともかく、いわゆるタンゴの第Ⅰ期黄金時代(1930年を挿むほぼ四半世紀)に活躍したガルデルを含む男性歌手3羽烏は、Agustin Magaldi(アグステイン・マガルデイ)とIgnacio Corsini(イグナシオ・コルシーニ)だ。それぞれ個性豊かな歌い手で、当時、結構多かった男性歌手陣の中でひときわ抜きん出た存在だったことは間違いない。

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タンゴの話 86 <続・アダ・ファルコン>

「タンゴアルバム」では、「第1期黄金時代」コーナーでこの時期を代表するアルテイスタのO.フレセドに続き「アダ・ファルコン」を選んだ。20年に満たない活動期間で彼女が残したレコードには名曲がひしめき、結局2014年6月から8月までの放送予定で19曲紹介することにした。タンゴの女性歌手には何故か美人が多いが、彼女は活躍期間が短かったせいか、聴衆の期待度が高かった故か、格別美貌と美声で際立つ存在だったと思う。それにしても歌を止めて60年も修道院から一歩も出なかったのは、惜しみても余りある痛恨事だ。噂されるフランシスコ・カナロとの人間関係も、どちらが振ったのか振られたのか、どちらでもいいが、想像され今ではやや定説になっているカナロ側の失恋説がホントだとしたら、超大物の妨害でその後の演奏活動が一切出来なかったことは、残念ながら想像に難くないではないか。

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タンゴの話 85 <アダ・ファルコン>

今から12年前の2002年。元旦早々ではないが、新聞紙上でアダ・ファルコン(Ada Falcon)の訃報を知って魂消てしまった。アルゼンチンタンゴの黄金期はブーム第1期として1930~1940年前後があげられるが、この時期、まさに彗星の如く現われ、素晴らしいタンゴ歌唱の数々を残し、再び忽然と消えてしまった美人歌手「アダ・ファルコン」の輝ける存在があった。彼女は1905.08.17.ブエノスアイレス生まれ。アルマ・デ・タンゴ(タンゴの魂)と讃えられアルゼンチン・ビクターの初録音は1925年、ほぼ220曲の録音を残して楽界から引退、コルドバ州に移って修道女となったのは何と1942年。亡くなったのは2002.01.04。享年96歳。ファルコンは偶然にも生まれた年に作曲された「ラ・モローチャ」が大好きだった。何故こんなに早く歌を止めたのか。謎は今も残る。

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タンゴの話 84 <続「エル・オンセ」>

タンゴ「エル・オンセ」はフランシスコ・カナロ作の「エル・インテルナード」と関わっている。ブエノスアイレス医科大学のインターン生が1914年9月に初めて舞踏会を開いて評判になった。出演楽団はフランシスコ・カナロ率いるオルケスタで、カナロはこの時「エル・インテルナード(インターン医学生)」を作曲して献呈、初演した。この会は毎年開かれ出演楽団も様々だったようだ。その第11回目が1924年9月21日(毎年の春分の日だったようだ)、ビクトリア劇場で大規模のダンスパーテイが開かれ、選ばれたオルケスタがオスバルド・フレセド楽団だった。フレセドはこの時の為に「エル・オンセ」を作曲献呈し初演した、というのがこの曲名の由来だ。なおこのパーテイはこの時が最後になったらしい。以上がこの曲にまつわる現在の定説となっている。エル・オンセ駅やオンセ広場とは何の関係もないという経緯にはややガッカリの感だ。

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タンゴの話 83 <「エル・オンセ」>

オスバルド・フレセド作曲の名作タンゴ「エル・オンセ」はそのまま訳して数字の「11」だ。数字や月日を曲名にするタンゴは幾つかあるがその中では最も有名な曲だ。1965年頃、ボクは父が新築したビルの4階にナイトクラブを開き国道11号線(当時・現在は県道に格下げ)沿いだったので店の名を「エル・オンセ」と付けた。その頃は高松では全く珍しい厳しい会員制のクラブで発起人には2013年に亡くなったタンゴ不世出の名歌手・藤澤嵐子の名前もあった。68年に渡亜した際ブエノスアイレス市のエル・オンセ駅やエル・オンセ広場などを訪ね歩いたが、どうにも店のPRに繋がる材料は見当たらなかった。それでもJCIの国際会議で訪れたマル・デル・プラタ(著名な避暑地でA.ピアソラの生地)では、カジノのルーレットで「11」に張り続けてそれなりの成果を得たので、やはりこの数字に自信をもったのだ。

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